カザフ人の刺繍世界 - バヤンウルギーの地で想いを紡ぐ -

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カザフ人の刺繍世界 - バヤンウルギーの地で想いを紡ぐ -
NPO法人しゃがぁ会報vol.49(2011/12/1発行)より抜粋

モンゴル国の首都ウランバートルから西方へおよそ1700km離れたところに、バヤンウルギー県という場所があります。
モンゴル国の最西端に位置しているバヤンウルギー県は、北はロシア連邦、南は中華人民共和国の新疆ウイグル自治区に隣接していて、 西はカザフスタン共和国に近接しています。ここには、モンゴル国に居住しているおよそ140万人のカザフ人のうち83%が敁住しています。このことから、モンゴル国の中で最も多くのカザフ人が住んでいるところと言えるでしょう。カザフ人がこの地に移住してきたのは、1844年と言われています。1800年代に現在の新疆ウイグル自治区で生活していたカザフ人たちが清朝帝国に対する反乱を起こし、その中の一部の世帯がアルタイ山脈の南嶺を越えて北嶺へ移住しました。移住した人々は、 モンゴル人とともに協力して社会主義革命を成功させ、 1940年にはバヤンウルギー県が設立されるに至りました。カザフ人はイスラム教をM仰しています。それほど厳格なイスラム教徒ではないと言われていますが、チベット仏教が主な信仰宗教であるモンゴル人とは、同じモンゴルという国の中にいながらも全く異なった文化を持っています。 どちらの民族も遊牧を生業の中心としていても、カザフの遊牧文化はモンゴル人の居住地域で見られるそれとは多くの点で違いが見られます。カザフ人の主な使用言語はカザフ語です。力ザフ語は、テュルク系言語のひとつで、キルギス語などに近いと言われます。 モンゴル以外ではカザフスタンやロシア、新疆ウイグル自治区、トルコなど中央アジアの各地で使用されています。 モンゴル国の公用語はモンゴル語とカザフ語ですが、バヤンウルギー県においてはモンゴル語よりカザフ語の方がよく聞こえてきます。特に田舎ではモンゴル語が全く通じないという場合もあります。私が訪れたサグサイ村でも、そういった場面が多々ありました。

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豊かな自然に囲まれた土地 サグサイ村
バヤンウルギー県の中心都市であるウルギー市を出て、山間の道を車で進むことおよそ1時間。ウルギー市から30kmほど離れたところに、サグサイ村があります。 この村の標高はおよそ2000mで、9月には霜や雪が降り始めます。私は、まさに霜が降り始めた9月初句にここを訪れました。朝と夜の空気が少しずつ寒くなってきた頃でした。秋のサグサイ村は、一面に黄色みがかった草が広がり、夕日が差し込む時間带になるとキラキラと美しく光ります。 風が吹くと革が揺れて一段と美しく見えます。この時期は川辺に白鳥がやってきたりして、気持ち良さそうに泳いでいます。魚も沢山いるので、人々はよく釣りをして楽しみます。村の周りを囲む山々は日によって少しずつその表情を変えます。この山々をみていると、小さなことをちまちま悩むのがばかばかしくなるような、そんな気持ちになります。サグサイ村は全身で自然を感じることができる、 そんな場所です。私は、この村に住む鷹匠のマナイさんの家にホームステイさせて頂きました。マナイさんとご家族のみなさんは、突然お邪魔したにも関わらず、 温かく出迎えてくれました。滞在初日、マナイさんとご挨拶を交わした後、早速ウイに案内されました。
ウイとは、カザフ語で「家」を意味する言葉でカザフの移動式住居を措します。ウルギーのカザフ人たちは、夏季に住まう住居として使用しています。マナイさんのウイに入ると、外とはまるで違う空間に入り込んだようでした。 ウイの中は色彩鮮やかな装飾品で埋め尽くされていて、上を見ても下を見ても、暖色系の色鮮やかな装飾品が次々と目に入ってきます。その中でも真っ先に目に入ってきたものが、真っ正面の壁に貼られた大きな刺繍布でした。布一面に、美しい刺繍が施されていて、見る人を圧倒します。それが貼られているのは真っ正面の壁だけではありません。家の中をぐるっと見渡すと、ウイ内部全体に大きな刺繍布が貼られています。これはマナイさんのご家庭に限らず、他のカザフ人のウイにおいても同様に、刺繍布が4枚ほど壁に貼られています。

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カザフの刺繍布トゥスキーズ
この刺繍布を、カザフ語でトゥスキーズと言います。壁に貼られているトゥスキーズの大きさはだいたい縦120cm x 横240cmほどで、ものによって多少異なります。トゥスキーズは主に、風よけや砂よけ、防寒対策のために用いられています。今でこそ当たり前のようにどこの家庭でも兑られますが、「昔はトゥスキーズさえ無い時代があったもんだ」と、マナイ家の近所に住むカザフ人のおじさんが語って下さいました。トゥスキーズを飾るという行為は、生活の豊かさを表す行為でもあったのでしょうか。マナイ家のトゥスキーズは、マナイさんの奥さんのチョルパンさんと、チョルパンさんのお母さんが作ったものでした。カザフ人の親は子どもが結婚するとき、 その子どもが男であればウイを、女であれば全ての家財道具を、子どもが結婚して 1 年後に渡さなくてはなりません。つまり花嫁の両親は家財道具一式を準備せねばならず、その中には当然トゥスキーズも含まれています。勿論、既製品を購入しても良いようですが、多くのカザフの女性たちは嫁いだ自分の娘のために自ら刺繍したそうです。このため、カザフの女性達には、優れた裁縫技術が求められ、幼い頃から練習してきたそうです。布一面に大胆に刺繍されている模様は、カザフの民族文様であったり、動植物であったり、星であったりと、多種多様です。トゥスキーズに描く模様に、イラスト集や文様集などのテキストはありません。カザフの女性たちが自分達の頭の中でイメージした模様を布に描いて縫います。マナイ家の近くに住んでいるご家庭にお邪魔したとき、その家の奥さんがちょうど小さめのトゥスキーズの作成をはじめたところでした。下書きも何も無い真っ黒な布の上に、牛乳と歯磨き粉を混ぜた液体を細い小枝につけて、何の迷いもなくスイスイと模様を描いていきます。布に模様を描けなければ、トゥスキーズは作れません。しかし、この模様はカザフ人なら誰でも描けるというわけではありません。一体何がそれをわけているのでしようか。単に才能の問題というわけでもないようですが…。

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カザフの民族模様の意味
彼女達が、トゥスキースをはじめとする身の回りのものに施す模様の中に 力ザフの民族文様があります。 まるで、ヤギの角を連想させるような曲線を用いた文様が多いのですが、カザフの文様を日本の友人に兑せたところ、「アイヌの文様に似ている」と言われたことがありました。アイヌの人々と言えば、文様そのものや文様の施し方に意味を持たせて用いていたと聞きます。そこで、カザフの文様にも何か意味があるのではと思い、人々にその起源や意味を聞いてみたのですが、 誰からもその意味について明確な解答を得る事が出来ませんでした。中には意味なんて無いよっていう方もいらっしやいました。この事は、自分にはとても不思議に感じられました。例えば、モンゴル人の中で生活していると彼等の用いている家具や衣服に彼等の民族文様が施されていることに気がつきます。私はそれらの文様の意味をモンゴル人の友人に度々尋ねてきましたが、友人達からは文様の意味や起源に関して必ず何らかの答えが返ってきました。それだけに、力ザフの人々が特に文様の意味を意識せず、周りにこれほどまで施しているという事に疑問を抱きました。カザフの人々からは、文様の意味や起源については話を聞く事ができませんでしたが、しかし、「これはカザフの文様なんだ」という風に何度か言われたことがあります。文様そのものの意味を知らずとも、それを見ればカザフの文様だと感じるのだというのです。 この言葉からは、それが自分たちの罔有の文化であり、民族を表すものであるのだということを強く意識しているかのような印象を受けます。モンゴル国において少数民族として位置づけられている彼等にとっては、「自分たち 」 を象徴するものを身の回りに施すことによって、彼等自身の民族アイデンティティの維持や強化の為に利用してきたのではないかと感じられます。しかし残念ながら、今回の短期間のフィールドワークの中では、この事に関するはっきりとした解答を得る事は出来ませんでした。彼等の文様とその利用の在り方については、今後も時間をかけてじつくり考察を続けていきたいと思います。

マナイ家での生活
お世話になっているマナイ家のお仕事を少しでも于•伝いたいと思ったのですが、カザフの女性の一日の仕事量は半端なものではありませんでした。朝一番はやく起床してみんなを起こさないように静かに家を出て牛の搾乳をし、戻ってきてお茶の笮備をはじめます。 朝のお茶を飲み終わったらウイの掃除を行い、それが終わったらテゼックと呼ばれる乾燥した牛の糞(燃料)を拾いに出かけます。日によっては、午後に屠殺を行ったり乳製品を作ったりと、秋はとにかく仕事が沢山あります。空いた時間にちょっとおしゃベりしに近所の家にお茶を飲みに行ったかと思ったら、すぐ夕方になって、今度は山羊の搾乳へ。それが終わったら夜ご飯の準備にとりかかり、ご飯を食べたら片付けをして就寝…。 友人に「遊牧民はのんびりした生活を送っているんでしょう? 」と聞かれる事がありますが、むしろ「一体いつ休んでいるのだろう? 」と思うほど、彼女達は常に動いています。
私もお手伝いを…と思ったのですが、高地という事も関係しているのか牛の糞拾いが想像以上に重労働で、しかも日に数回行くものですから、夜にはもうへ卜へ卜になっていました。冬になると、搾乳の仕事がなくなるので少しは楽になるそうですが、それでもカザフの女性たちはこの状況下で暇を見つけては刺繍しています。私には、とてもそんな余裕は残っていませんでした…。
とはいえ、せっかくここまで来たのだから、自分もなんとかカザフの刺繍を習てみたい!と思い、無謀にもチョルパンさんに教えてほしいとお願いしてみました。すると、「ビズケステだったら簡単だからすぐできると以うわ。 」と言われました。次の日、早速鉄の枠に縫いつけられた布と糸、そして鉤針を渡されました。この鉤針のことを、カザフ語でビズと言います。刺繍の事はケステといい、「鉤針を使って施す刺繍」のことを、「ビズケステ」と言うようです。ビズケステによって出来る縫い目は、いわゆるチェーンステイッチと呼ばれる刺繍方法によるものと同じ形です。鉤針を布の表側から指し、布の裏側で糸を引っ掛けて、引っ掛けたまま穴から引っ張り出します。糸が輪っかの状態になっているので、そのまま鉤針を通した穴の隣をまた指します。その繰り返しです。ビズケステ以外にも、様々な刺繍方法があります。細い針を用いた手刺繍全般をコルケステと言います。さらにシュプレズケステと呼ばれる刺繍方法もあります。これは、シュプレズと呼ばれる螺子のような形をした針を用いる刺繍です。針の上部から糸を入れて、針の先端にある穴から糸を出し布にあてつけながら縫うものです。人によってはこれら全ての刺繍方法を習得していて、身の回りの生活品に、種類に富んだ様々な刺繍を施しています。こうして、念願かなってビズケステを実践する事になったわけですが、自分で刺繍してみてはじめて、カザフ女性たちの凄さを実感しました。チョルパンさんが始めにお手本を見せてくださいましたが、手元が見えないほど速く、しかし正確に、そして美しく縫っていました。彼女達は、トゥスキーズ1枚を平均2〜3ヶ月ほどで縫い上げるといいます。最初その話を聞いた時は信じられませんでしたが、チョルパンさんの縫い方をみて納得しました。ウイの中での刺繍作業は、朝昼はともかく、夕方以降は部屋の中が暗くなるため、手元が見えにくくて大変です。長時間の作業は目も疲れますし、彼女達の場合は他の仕事も同時にこなさなくてはなりません。厳しい環境ドでも、これだけ美しいものを作り出せるのかと思うと、その凄さに脱帽しました。私は彼女が描いてくれた文様の上をなぞるように縫っていきました。曲線ばかりで最初はなぞるのすら難しかったのですが、次第にパターンがなんとなく掴めてきました。お母さんから初めて刺繍を習う時のカザフの子ども達も、きっとこんな風にお母さんが描いたものをなぞりながら刺繍することで、 絵のパターンや刺繍の仕方を身体全身でだんだんに覚えていくのかなと、そんな風に感じられました。

再会の約束
そしてマナイ家滞在最終日。自分なりには大健闘したものの結局布をぼろぼろにしてしまったので、引き取ってまた日本で練習しようと思っていました。するとチョルパンさんが、「また今度いらっしやい。その時までにこれを完成させておくから、必ずまたいらっしゃいね。 」と言ってくださいました。この布に刺繍しながら、再会を待っていてくれるのかなと姐うと本当に嬉しかったですし、刺繍布を通じて再会の約束を交わしたようで、私も絶対またここに来なくてはと心から思いました。

クグルシン家に
サグサイ村を離れ、ウルギー市へ。ウルギー市では、しゃがあの「遊牧の民の調べコンサート 」のドンブラー演奏者でおなじみのクグルシンさんのお宅にお邪魔することになりました。クグルシンさんの7人のお子さんの内、なんと6人が女の子! 上の 3人は既にご結婚されて家を出ていますが、残る4人と親戚の2人(女の子)、クグルシンさん、奥さんのマウリアさんと、普段は8人で生活しています。8人中6人が女性、そこに私が転がり込みました。最初はお互い遠慮もありましたが、すぐに慣れて、それからはもう質問攻め!私のこと、日本のこと、その日の出来事、TVの話、恋愛トーク…私のカザフ語は挨拶程度だったのですが、全く構わず色んな質問や話をされました。女子パワーすごすぎる!!! と叫びたくなるほどみんな元気で、明るく楽しい家族でした。

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ウルギー市の生活
ウルギー市内も色々と散策してみました。ウルギー市はそれほど大きな町ではなく、車を使えば 1 周するにもそれほど時間を要しません。クグルシンさんの家は町の中心地より少し外れたところに位置していたので、家から徒歩で町に出てみる事にしました。散策中、一番印象的だった事は、みんなちやんと車が通り過ぎるのを待って道を渡っていた事です。
ウルギー市には、首都ウランバートルで見られるような忙しない雰囲気は無く、ゆったりとした穏やかな空気が流れていました。人々もルールを守り、モラルある行動をとっていて、とても好感が持てました。ウルギー市の中心部の至る所には、小さな刺繍工場があります。大抵の工場はロシア製のミシンを何台か所有していて、それを使ってトゥスキーズや服を縫います。手作業を行う工場は少なくなってきたと聞きます。ミシンの場合は作業口数も短く、大きなトゥスキーズ1枚を約1週間で縫い上げます。中には下書きすら描かず、ぶっつけ本番で布にひたすら刺繍していく凄い職人さんもいました。頭の中に模様のパターンがしっかりと記憶されているようでした。 これらの工場は、オーダーメイド用、あるいは、市場に卸す為にトゥスキーズを作るそうです。工場で働いていたおばちゃんたちは、突然カメラをもってやってきた 日本人の女に少しびっくりしていたみたいですが、基本的にはみなさん明るく気さくに接して下さいました。

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母の想い
クグルシン家での生活はあっという間に過ぎていき、遂にウルギー滞在最終日に。実はこの日まで、クグルシン家の誰かが刺繍している様子を全く見ていなかったのですが、その日の夕方、遂に奥さんのマウリアさんが動き出しました。壁に立てかけてあった枠付きの縫いかけの布に、ビズを使って刺繍しはじめたのです。最初、私は「ビズケステだ」と思ってただぼ一っと見ていました。正直、あのとき自分の脳裏には「ビズケステの縫い方は、もうサグサイ村でも刺繍工場でも見ているしなぁ。」という考えがありました。恥ずかしながら、すでに「縫い方」を見たという事だけで妙に慢心していたのです。しかし、暫く見ているうちにマウリアさんの縫い方が、今まで見てきた縫い方と全く違う事に気がつきました。「刺繍は苦手なのよ 」と照れくさそうに話すマウリアさんは、とてもゆっくり、でも、非常に丁寧に縫っていました。縫い方は、それまでに見てきたビズケステと全く同じ方法でしたが、なんと表現したらいいのでしよう、その「雰囲気」がなんとなくこれまで見てきたものと違ったのです。私が「この家で使うトゥスキーズですか?」と聞くと、ちらっと私をみて「嫁いだ娘(長女)に贈るものなの」と話してくださいました。マウリアさんは、ひと針ひと針、じっくり縫い進めていきます。その時のマウリアさんの優しそうな表情は、娘を想う母の顔そのもので、思わず見入ってしまいました。
このトゥスキーズの作成をはじめて、すでにだいぶ時間が経過しているようでしたが、忙しい時間の合間をぬって一生懸命作っているようです。実は、マウリアさんは先日次女に贈るトゥスキーズを縫い終えたばかりらしく、完成したものを出してきてくれました。 拡げてもらった瞬間、私は思わず大声をあげて叫んでしまいました!!布の上に絵の具で絵を描いたのでは?と錯覚するほど、隙間無くびっしり刺繍が施されていて、その素晴らしさに圧倒されました。これほど見事なトゥスキーズは、なかなか見られるものではありません。今は遠く離れている娘さん達の事を考えながら、彼女達と一緒に過ごした時間を思い出しながら、そしてなにより、新しい家族とともに彼女達が元気で幸せに暮らしていくことを願いながら作られたトゥスキーズは、その縫い目のひとつひとつから娘を想う強い気持ちが溢れてくるようでした。これを受け取った娘さんはどんな想いを抱くのか。もしも、 自分がこれを自分の母親から受け取ったら…、と思うとなんだか自然に涙が出てきてしまいました。愛する人を想い、家族を想い、そして故郷を想いながら縫っていく。 トゥスキーズの魅力の原点を見たように感じられました。

まさかのプレゼント
マウリアさんの刺繍を見ていたとき、クグルシンさんの4女サルカンが、小さな刺繍布を持ってやってきました。サルカンは刺繍布を見せて、私に「持っていくか?」と聞いてきたのです。実はその刺繍布は、サルカン自身が昔頑張って縫ったもので数日前にそのことを聞いていました。その時、私は少し困りました。実は、私はこれまでどこの家庭でも刺繍布を「購入しないか」と訊ねられていたので、サルカンはきっと私にこれを売りたいのだろうと思ったのです。しかしそのとき私は財布の中に帰る分の交通費しかなかったため、仕方なく「買えないんだ。ごめんね。」と断りました。すると、サルカンは黙って紙に「teke」と書きました。その意味がわからず、辞書で調べてみると「野生の雄山羊」と言う意味でした。一体何を言いたいんだ??と、ますます意味がわからなくなり、結局その場でふたり無言になってしまいました。夜になって、クグルシンさんにその事を話し「teke」と書いてある紙を見せると、クグルシンさんはびっくりした顔をして「こら!スペルが間違っている!」と言い「tekke」と書き直しました。実はサルカンがいいたかった 「tekke」は「無料で」という意味だったのです。サルカンからの思わぬプレゼントに本当に驚きました。サルカンとはクグルシン家滞在中、一番長く一緒にいましたが、言葉が通じ合わないせいでイライラさせてしまうことも多かったので、まさか自分に贈り物をくれるなんて想像もしていませんでした。サルカンは(間違ってスぺルを書いたということも含めて)少し照れくさそうに笑って私にそれを渡してくれました。私も彼女の好意を断ってしまったことを謝罪して、「ありがとう 」と伝えて受け取りました。誰かが 一生懸命作ったものからは、その人の気持ちが伝わってくるようでとても溫かく感じられました。

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変わる文化・変わる刺繍
カザフ刺繍にも近年変化が見られるようになりました。社会主義崩壊以降、バヤンウルギー県にも観光客が訪れるようになり、その流れの中でカザフ刺繍の施された装飾品が商品として売り買いされるようになりました。商品化の動きの中で、人々は単にトゥスキーズを売るだけではなく、トゥスキーズを切って鞄にしたりポーチにしたりとリメイク商品を作り販売しています。カザフ刺繍のお土産物は、その市場を広め、今ではバヤンウルギー県だけに留まらずウランバートルでも販売されています。 鷹匠のマナイさん家のように観光客と密接に関わる人々にとっては、刺繍の販売は経済的に大きく影響を与えているようです。またモノそのものだけでなく、作り手にも変化が見られます。今回のフィールドワーク中に出会った女性たちにインタビューしてみると、 刺繍が出来ない若い人がかなり増えてきているようでした。一方で、機械による刺繍品は増えているようです。先に述べたような商品としてのカザフ刺繍の需要が増えれば増えるほど、ゆっくりじっくりビズケステで作られたトゥスキーズの数はだんだんと減っていくのではないでしょうか。私が初めてカザフ刺繍に出会ったとき、その迫力と美しさに強烈に惹かれました。なぜ自分がこれほどまでに惹かれ、カザフ刺繍の世界に引き込まれたのか。今回の滞在の中で、 力ザフの人々と刺繍との関わり方をみて、刺繍に込められた想いに惹き付けられたからではないかと感じました。この先、カザフの刺繍文化がどのように変わっていくのか、今の私にはわかりませんが、彼等の温かい心や誰かに対する想いを感じることができるこのカザフ刺繍から今後も目を離せません。

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参考
Sultan Taukein, ZuliKapun
Mauletiin(2010) Bayn- olgii aimgiin
nevterkhn toli Ulaanbaatar
西村幹也 「モンゴルのカザフ人」

著者
廣田千恵子
2009年から1年間モンゴル国立大学に留学。 2011年に東京外国語大学外国語学部モンゴル語学科を卒業。 現在は、 留学中に興味を持つたカザフ人の装飾文化についてより深く学ぶため、 千葉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程に在学中