モンゴルのカザフ人

「モンゴルのカザフ人」(日本モンゴル協会にて開催された講演会から)
2011年9月『日本とモンゴル』第46巻第一号(123号) 

 日本モンゴル協会で講演となりますと、モンゴル通の方も多くいらっしゃるので、とても緊張するのですが、見聞きしたことを中心に話をさせていただこうと思います。私自身、カザフ語も勉強中のみですし、ほんの5,6年前からカザフ人たちとのおつきあいを始めたところです。ですので、学術的な裏付けを取ったわけではなく、現地の人々からの伝聞が多いことを、言い訳がましい話ではありますが、ご了承のほどお願い申し上げます。

 モンゴルのカザフ人といいますと、モンゴル国籍を持つカザフ民族をいいます。モンゴル人の中には、「カザフもモンゴル民族の一部だ」とかという暴言を吐いたりする人もいまして、コンサートツアー中(毎年1~3月にかけてモンゴルの馬頭琴と、カザフのドンブラの演奏会を全国で行っています)に、招聘しているカザフ人(クグルシン氏)がとても気分を害することになったりします。とあるカザフ人に言わせれば、「ハルハ・モンゴルなんて、元朝秘史に名前も出てこない新参者じゃないか!俺たちの祖先、ケレイトやナイマンはモンゴルなんていうのが出てくるより前からいるんだ!」ということらしいです。なるほど言われてみれば、確かにモンゴル民族が北アジア地域に名をはせるよりずっと前から、カザフという名前はなかったですが、彼らの直接の祖先となる集団は存在してきたわけです。そんな古い歴史をもつ民族であるカザフ民族の基本的なデータからお話しさせていただこうと思います。

 カザフ民族はトルコ系民族なのですが、その構成は大きく4つの集団から成り立っています。すなわち、トルコ系集団(Argyns,Khazars,Qarluqsj,Kipchaks)、トルコ-モンゴル系集団(Kiyat,Dughlat,Naimans,Nogais,Onggirat,Munghut,Jalayir,Alshyn)、プロト-トルコ系集団(Huns,Kankalis,Wusun)、イラン系集団(Sarmatians,Saka,Scythians)らによって構成されています。彼らは5~13世紀にかけて、シベリアから黒海にかけての中央アジア地域に活動し、相互に抗争を繰り広げてきたという歴史を持ちます。カザフという名称は15,16世紀頃から使われるようになりました。

 カザフという言葉はその語源や意味に関して、様々に言われるようです。一説には13世紀のトルコ-アラビア語辞書にみられる、「独立した」とか、「自由な人々」を意味するというものがあったり、「放浪する」という意味のトルコ語であるという説があったりです。いずれにしましても、1460年頃にチンギスハーンの長男ジョチの5男の子孫に当たる二人の王族、ジャニベクとケレイがウズベクの支配を離れ、独立政権を立てた際、彼らや彼らの配下のものたちが「カザク」と呼ばれるようになり、これが民族名称としてのカザフの起源とされています。(「世界民族辞典」弘文堂)

 カザフ民族は現在、その人口の多い順に、カザフスタン、中国、ウズベキスタン、ロシア、モンゴル、トルクメニスタン、キルギスタン、アフガニスタン、トルコ、イランなどに広がって生活をしています。おおよそ1200万人ほどになりますが、そのうち、約14万人がモンゴル国にいます。

 彼らはカザフ語を母語とします。カザフ語はテュルク系言語の一つですが、その中のキプチャクグループ(カラカルパク語、ノガイ語、パシトルコ語、タタール語など)に分類されます。キルギス語とも近いと言われています。

 カザフ語自体は方言差は少なく、それぞれの土地での多数側言語の語彙の違いがあるくらいだそうです。つまり、カザフスタンではロシア語、新疆ウイグル地域では中国語、モンゴル国内ではモンゴル語からの語彙や表現の影響をうけることはあるそうです。またアラビア語やペルシャ語起源の単語が多いなど、クグルシン氏の話では、トルコ語が西洋の語彙や表現を多く取り入れていったのと比べて、カザフ語やキルギス語、ウイグル語は古いテュルク語の特徴を残しているんだそうです。まぁ、このあたりのことは専門家の方に伺わねばならないわけですが、話者たちの理解ではそういうことになるようです。

 コンサートツアー中にウイグル人留学生とクグルシン氏が普通に会話を交わしていたので、後で、「何語で話してたの?」と尋ねたことがあります。すると、彼は「あぁ、私はカザフ語だよ。彼女はウイグル語。でも、ほとんど問題なくお互い理解できるよ。」と言いました。キルギス人との会話でも同じでした。カザフ語が出来るようになると、実質、中央アジアの広い地域で使えるということになります。

 20世紀初めにカザフ語音韻をアラビア語で正確に表記できるようになり、ソビエト時代にはいってから、カザフスタンでは1928年にラテン文字化が行われ、その後、1940年にキリル文字化が行われました。ロシア語表記用のキリル文字33文字に9文字を追加して、42文字のカザフ語キリル文字が使われるようになっています。ちなみに、新疆ウイグル自治区では現在でもアラビア文字表記が使われています。

 カザフ人たちは8世紀にイスラム教スンニ派を受容しましたが、シャマニズムや自然崇拝などの要素も多く残っているためか、特に”敬虔なイスラム教徒”という感じがしません。遊牧民社会におけるイスラム教は、他地域のものと比べると非常に緩やかに信仰されているとも聞きます。時々の都合で解釈が変わったり、イスラム僧侶の態度自体が揺れる様子を表した笑い話もあるくらいです。寺院にやってきた夫婦が「妻は夫に従うべきですよね」と尋ねた時、「夫は妻を正しく支配しなければならない」と僧侶は言ったそうです。すると、夫は「やっぱりそうだ。妻は僧侶にお礼としてウマをあげるべきだというのですが、私は羊でいいといったんですよ。」と言いました。それを聞くや僧侶は、「いやいや、この場合は、夫も妻の言うことを聞くべきである。」と慌てて言ったそうです。というような話です。とはいえ、社会主義崩壊後、バヤンウルギー県内の全ての郡中心部にモスクを作ろうという運動が起き、メッカ礼拝も活発になるなど、相応の信仰心は持ち合わせているようではあります。

 さて、次にモンゴル国内でカザフ人がもっとも多く住むバヤンウルギー県の基礎情報についてお話しします。

 バヤンウルギー県はモンゴルの西の端に位置し、中国、ロシアと国境を接しています。面積は45.7万平方キロメートル、標高は1301~4374mで、県の95.3%が標高1600m以上という非常に高い位置にあります。モンゴルの最高峰であるフイトゥン山(4374m)はロシアとの国境付近、タブンボグド山脈の中にそびえています。県全体がアルタイ山脈の中にあるといってよく、あちらこちらに、万年雪や氷河に山頂を覆われた山々が見え、モンゴル草原で見える風景とは全く異なります。年平均降水量は102.6mmととても低く、乾燥しています。ところが、アルタイ山脈山中の平均降水量は400~500mmと多いうえに、土地が乾燥していて硬く、また山には木がほとんど無いと言っていいほど、少なく、岩山が多いので、降った雨や雪解け水はすぐに流れだし各地で川を作り、低いところには湖を作ります。ですので、とても乾燥しているのに、沢山の水があるという不思議な環境を作り出しています。そんな非常にきれいな水を湛える湖ですが、湖岸のわずかな部分だけに草が生え、その外側は乾いた荒野が続きます。従って草地は非常に限られた場所にしか出来ません。谷間のわずかに低くなっている部分だけがうっすらと緑になり、その周囲は荒野という景観がほとんどなのです。「ハンガイ(森林に近い、山間草原)地域みたいなゴビ(丈の低い草の生える乾燥草原)地域」というような自然環境にあります。

 ちょっと話が自然環境からは離れてしまうのですが、この地域のカザフ人たちは夏には標高の高いところに営地を作ります。雪解け水で早い時期にのびた草を利用するのが目的です。この時期、川は氾濫を起こしやすいため、沢山の草が生えていても、営地には向きません。秋になり川の水が減り始める頃に低地部分に移動してきて、夏の間に伸びた草を利用します。そして、冬になると新雪を飲用水用に得やすい場所、つまり山の中腹から麓付近に冬営地を構えます。川のすぐそばでは水は得られますが、非常に寒いので、冬営地には向きません。このように、特に水と草を利用するのに有利なように、高度差を利用した移牧を行っています。ただ、これは私の個人的な興味なのですが、この地域に同様に遊牧生活を送っているモンゴル人やトバ人たちとどのように草地、営地を棲み分け、使い分けているのかがとても気になるところでもあります。きちんとした調査をしたわけではないのですが、垂直移動をするカザフ人に対して、モンゴル人やトバ人は水平移動をしているように見受けられました。トバ人は民族的、言語的にはカザフ人に近いテュルク系民族ですが、宗教は仏教、シャマニズムを信仰するなどモンゴル人に近く、宗教の関係からか、モンゴル-トバ間の婚姻は多く見られますが、カザフ人はカザフ人との婚姻が圧倒的に多いなど、このバヤンウルギーという地域は文化的に非常に入り組んでいてとても興味深いところでもあります。

 モンゴル国内にカザフ人は約14万人住んでいます(2007年)。そのうち約83%がバヤンウルギー県にいます(約9.3万人)。他はウランバートル市、ナライハ市(ウランバートルから東へ40kmくらい)、トゥブ県、セレンゲ県、エルデネト市、ダルハン市、ホブド県などに住んでいます。

 バヤンウルギー県に住むカザフ人たちの歴史について簡単におはなししましょう。

 先の話を少し繰り返すことになりますが、1470年にジョチ・ウルス(キプチャクハン国)の祖であり、チンギスハーンの長男ジョチの5男シバンの子孫であるジャニベクとケレイの二人がカザフ・ハン国を作りました。これがカザフという名称が広く使われるようになるきっかけとなっています。1500年代前半には現在のカザフスタンの領域の殆どを支配するようになり、カザフ草原の西部、中部、東部がそれぞれ小ジュズ、中ジュズ、大ジュズという集団となります。1600年から1700年代初頭にかけては、ジュンガル帝国との抗争が続きます。1726年には対ジュンガル帝国戦で、アブルハイルハーンの元、大勝利を収めるなどしますが、長い戦乱に疲れ、1730年~1740年代にかけて小ジュズと中ジュズはロシア帝国に帰属します。1755年にジュンガル帝国が滅亡するわけですが、この頃、ロシアの実質支配を嫌ったアバクケレイが一族を引き連れ、カザフスタンの土地を離れて、現在の新疆ウイグル自治区に移動していきます。この時に作られたと言われる歌を紹介しましょう。「エレムアイ」(ふるさと)という歌です。ふるさとを捨てて移動していくことになった老婆が、たった一頭だけ残されたラクダをひきながら、歌ったふるさとを思う悲しい歌です。

 さて、今の新疆ウイグルに移動した彼らですが、ここも安住の地とはなりませんでした。1800年代になると清朝帝国に対する反乱が相次いで起き始めます。そんな中、1844年にカブリシュとジルクシャの二人が500世帯ほどを引き連れて、アルタイ山脈の南麓から北麓、つまり今のバヤンウルギーに移動を始めました。移動後、作られた有名な歌の一つに、「ウルアルタイ」があります。暖かくて豊かな草原が広がっていたアルタイ山脈南麓を懐かしむ歌ですが、振り仰げば昔ながらのアルタイ山脈がそびえていることを喜び、山脈を讃えた歌です。

 その後、1863年から1877年にかけてヤクブ・ベクが清朝帝国に対して反乱を起こし、その後、平定されるなど、今にいたるまで続く、新疆ウイグル地域におけるカザフ人たちの苦難の歴史は決定的なものとなってしまいます。そして、1865年にはロシア帝国によって大ジュズが併合されるに至り、カザフ人の土地はすべてロシアに支配されることになりました。つまり、カザフ人の故地である現在のカザフスタンはロシアに、移動した先の新疆ウイグル地域は清朝帝国にそれぞれ支配されることとなってしまいます。アルタイ山脈北麓へ移動したカザフ人はモンゴル人民共和国建国時に積極的にモンゴル人に協力し、社会主義革命を成功させ、モンゴル国内においては少数民族という立場でありながらも、アルタイ山脈周辺においては最大民族の地位を確立させ、1940年にはバヤンウルギー県が制定されるにいたります。中華人民共和国で少数民族であることと、モンゴル(当時人民共和国)で少数民族であることには大きな違いがあります。なんといっても、多数側民族が、自分たちと同じ遊牧文化を基礎としているということです。言葉と宗教が違うだけではなく、様々な生活習慣は違いますし、姿格好もぱっと見た目で違う2つの民族ですが、”似たような家”で家畜を飼って暮らしているということで、モンゴル側から、生活を脅かされることは、中国における状況よりはるかに少なかったと思われます。また、カザフ民族の最初の国となる、カザフハン国を作ったのが、チンギスハーンの長子筋の人物であることも、本当は間違っているけど、”カザフ人もモンゴルの一部”という理解のもと、ひどい迫害の対象とならない状況を生み出したと考えられます。

 そういうわけですので、社会主義モンゴルではカザフ人は自分たちの民族文化を、それほどは脅かされることもなく、緩やかに順応していきます。モンゴル中央から離れたところにあることも有利に影響したようです。1700年代半ばから、移動を余儀なくされ、ふるさとを捨て続けてきたカザフ人たちにとっては安住の地となりました。しかし、モンゴル民族側のカザフ民族や彼らの文化に対する不理解や差別が無かったわけではありません。やはり少数民族という立場に追いやられていた彼らには不満もありました。そういうわけですので、1991年モンゴルが資本主義国家へと移行し、それまで制限されてきた移動の自由が与えられるや、民族の故地であるカザフスタンへと帰ろうという動きがでてきました。1991年時点には約10万人いたバヤンウルギーのカザフ人が1993年には75000人になっています。カザフスタンもこの移民を積極的に受け入れ、様々な優遇政策を施すなどしたことが背景となっています。この時、「アクサパル」(白き旅路)が作られました。カザフスタンへと移動していく人々を送り出し、その道中の無事を祈ると同時に、ふるさとであるバヤンウルギーとそこに残る者たちのことを忘れないで欲しいという願いが込められた歌です。

 カザフスタンへ移住していった人々ですが、行ったはいいけど、そこでは、かなりロシア化したカザフ人とカザフ文化と出会うことになりました。カザフ語を話せないカザフ人も多くおり、ウランバートルよりはるかに大きなカザフの都市になじむことが出来ない人も多くいました。また、モンゴルからきたカザフ人たちが古い民族文化、習慣を濃く残していたことは、カザフスタンでは歓迎され、讃えられましたが、それと同時に、田舎者扱いをうけることにもなりました。そして、慣れ親しんだアルタイ山脈の麓での遊牧生活に戻りたいと、再びバヤンウルギーに戻るカザフ人も出始めます。バヤンウルギーのカザフ人は1993年には75万人となりましたが、その後、再び増え始め、1998年には87万人、2009年には93万人にまでなっています。

 このようにバヤンウルギーに住むカザフ人たちは、様々な苦難の歴史を経験しているわけです。日本人はカザフというと、即、カザフスタンを連想し、カザフ = カザフスタンという理解が一般的です。ですので、クグルシン氏をカザフ人ですと紹介すると、「あぁ、カザフスタンから」とか、「カザフスタン人ですね」といわれることが多いです。ですが、バヤンウルギーのカザフ人たちにしてみると、自分たちは、どこの何者からの支配を好まずにきた歴史を持ち、そして、固有の文化を、他の地域のカザフ人たちと比べて、強く色濃く残していることを誇りとしていますので、「ロシア化してしまったカザフスタンと一緒にするな!」という気持ちもあります。この苦難の歴史を経験したことで、民族としてのアイデンティティを非常に強く保持し、カザフ文化を現在に残してこられたと考えられるのです。中央アジア各地に広がっているカザフ人の中で、バヤンウルギーのカザフ人、便宜的にウルギーカザフ人と私は呼びますが、自他共に、”もっともカザフ人らしいカザフ人”と評価されるとも聞かされています。

 さて、これからは、彼らが誇るいくつかの文化現象について紹介していこうと思います。カザフ文化には、いくつかのキーワードが考えられます。申し訳ないのですが、まだ学術的にきちんとした考察を加えた結果ではなく、思いつくままのものにすぎませんことご了承ください。今回は3つほどを考えました。それは、「口承文芸」、「装飾文化」、「騎馬文化」です。これらは、どれもがモンゴル文化にも同じキーワードが考えられると同時に、これらどれもが、カザフ人のアイデンティティの確立と固持にかかわっています。カザフ人がカザフ人であるためのラベルみたいなものになっていると思われます。

 まずは「口承文芸」からはじめましょう。私には、彼らの歴史をお話ししたときに歌を紹介しましたが、離れた土地に住みながらも互いに同じ歌や、それぞれの土地で起きたことをよく知っているように感じられ、そのことが、とても不思議に感じられました。そこで、クグルシン氏にその訳を聞いてみたんです。すると、彼は、「昔はサル・サロウという”かっこいい男たち”がいて、彼らは歌を歌いながら各地を転々と移動しながら、見聞きしたことを伝えてきたんだよ。」と教えてくれました。なるほど、吟遊詩人のような一団が、現在のように国境が無く、移動が自由に出来た時代には存在し、彼らが遠く離れて暮らし合っているカザフ人たちのアイデンティティを一つにまとめる役割も果たしていたんだと思われます。彼らの、といいますか遊牧民に多く見られる傾向ですが、文化の基本には口承文芸があると考えられます。あちらこちらの土地から集められた物語や歌は英雄叙事詩であったり、詩になったり、歌になったりと、変幻自在に形を変えながらも広められ、語り継がれてきたのです。カザフの民族楽器は、その出自があやふやなものを含めると数10とも数100種とも言われるくらいたくさんあります。広く広がって周辺文化と接触してきた結果として当然と言えば当然の話です。そんな中でもドンブラはもっとも広く民衆に広がっている楽器と言っていいでしょう。私がはじめてバヤンウルギーを旅したときに立ち寄った家で若者がドンブラの弾き語りをしてくれました。彼が歌い終わると、その場にいた別の人が歌い、そして終わるとまた次の人が歌うというようにその場にいた殆どの人が歌いました。「このメロディはね、カザフ人なら誰でも知っているメロディでね。そのとき、そのときに自由に歌詞を作って歌うんだよ。新婚の彼は嫁のことを、あの小さい女の子は自分の子ヤギのこと、私はウランバートルの大学に行っている息子のことを歌ったのさ。」と説明を聞かされたときは、その文化レベルの高さに驚愕したものです。またカザフにはアイトゥスと呼ばれる即興歌競技があります。歌い手がそれぞれ相手の作った歌を受けて、ドンブラで即興弾き語りをしあい、より高度におもしろい歌を作ったと認められた方が勝ちというものです。残念ながら、まだカザフ語がわからないので何をどのように歌っているのかは判らないのですが、聴き手たちは爆笑しながら聞き入っているのが印象的でした。誰もが、言葉を繰ることに長けており、その紡がれる言葉をそのままに楽しみ、伝えていくことができる、そんな人々でした。

 続いて装飾文化ですが、紹介してきた写真を見ていただければ、その色彩の豊かさと紋様の美しさにお気付きだったことと思います。彼らの移動式家屋はウイと言われます。これは、”家”を表す言葉ですので、建物自体の名称とは言い難いかもしれません。このウイはモンゴルのゲルより高く、壁部(モンゴルゲルでいうところのハナ)に曲げられた屋根棒(同じくオニ)が一つ一つ縛り付けられていて、天窓を支える柱は壁側に近いところにあるため、屋内はとても広く、高さがあります。そして、このウイの中は、色とりどりの刺繍の施されたトゥスキィスと呼ばれるタペストリー、フェルトに模様を縫い込んだ絨毯サルマック、毛糸を巻いた葦の茎を束ねて作った砂よけ壁(オルガン チー)などの他、ありとあらゆる所に装飾が施してあります。どれも家の女性たちの仕事で、家を美しく飾ることが女性の喜びであり、誇りであるかのようです。晴れ着にはもちろん、帽子、ガウンやベストなどにも色鮮やかな沢山の刺繍が施されています。バヤンウルギーの自然景観にみえる色と言えば、空と湖や川の青と草原のかすかな緑、あとは雪の白があるだけで、色彩的にはとても寒い感じがするわけですが、そのぶん、人間活動に関わる部分は、対照的に、とても鮮やかに彩られているのです。タペストリー(トゥスキィス)も絨毯(サルマック)も、制作にはかなりの時間がかかるのですが、忙しい家事の合間にせっせと作ります。また身の回り品にも、スペースがあれば刺繍を施す念の入りようです。モンゴルでも刺繍を施す習慣はありますが、カザフほどでは無いように思われます。それに近年、モンゴル人たちは既製品をすぐに購入、使用する傾向が強く、民族的なものは徐々に姿を消しつつあります。一方、カザフ人たちにとっては、モンゴル物品は身の回りに多いけれど、それらを使うことは、モンゴル文化、モンゴル社会側へと近づいていくことになり、自分たちの独自性を維持しようとした場合、普通に商店に並ばない日用品を自分たちで作らねばならないのです。ですから、自分たちをモンゴルから区別するための物品として、それらを自分たちで作り続けてきたということになります。そして、それらを使用することが、同時に自分たちのアイデンティティを確立することになるわけです。ちょうど、内モンゴル地域のモンゴル人たちが、一般に商店に並ばないモンゴル服を自前で作ることに似ています。民族固有のものを身につけることが文化を維持伝承していくためにとても重要であることがわかります。カザフ人の装飾文化は、周辺類似遊牧民族たちと自分たちを明確に分けるための役割をもっているのです。

 さて、遊牧民なのだから、「騎馬文化」というのは当たり前です。ですが、カザフ人たちのそれは、遊牧のための騎馬文化にとどまらず、狩猟行為と密接に結びついていたり、乗馬技術を競い合うゲームが存在したりする点でモンゴルのそれとは異なっています。もちろん、モンゴルにおいても狩猟活動と乗馬技術は切れない関係にありましたが、今ではその伝統はほぼ失われたと言ってもいいでしょう。モンゴル人たちはカザフ人と比べて平地にいるため、早く移動することに重きが置かれた乗馬技術の発展が促されました。長時間、疲れずに早く移動するのに適した構造の鞍を作り、安定して走れるウマを育て、乗馬方法を発展させるなどが、それにあたり、よって乗馬技術は競馬によって切磋琢磨されることになります。これに対して、山岳部に住み、ごつごつとした岩場の多い場所で要求される乗馬技術は異なります。たとえば、蹄鉄を使うことなどは、環境による馬文化の違いを端的に示しているといえるでしょう。さらにカザフ人はイヌワシを使った毛皮猟を行うことで有名です。馬で高い岩山の頂上からイヌワシを放ち、その後、岩山を駆け下りなければなりません。上下動の激しい状況下を、大きなイヌワシを腕に乗せて素早く移動し、また、飛んでくるイヌワシに対応した体裁きも要求されます。繊細でありながら、大胆な乗馬技術をカザフ人は持っているのです。これらのことは、イヌワシを使った狩りの現場や、民族競技である”ククパル”、”ティエンイルゥ(テンゲ イルゥとも)”、”クズコアル”などにみることが出来るでしょう。

 さて、イヌワシ狩りについてです。まずは、冬の間に目をつけたおいたイヌワシの巣から雛を盗み出します。このとき、メスを選ばねばなりません。狩りを積極的にするのはメスだからです。メスは足が大きいので、すぐに見分けがつくようです。そして、夏の間、調教します。そして、10月以降冬の間、キツネ、マヌルネコ、ウサギなどを対象に毛皮猟を行います。狩りに行くときは、騎乗して、バルダックという肘置き杖でイヌワシをのせた腕を支えます。非常に鋭い爪から腕を保護するために、分厚い皮で出来たビヤライという手袋をはめています。この時、トゥマガというマスクがイヌワシにははめられています。で、山頂についたらトゥマガをはずしてやって、獲物を探します。勢子を連れて行く場合もあり、勢子は麓で大声を出したり、石を投げたりして隠れている獲物を追いだし、それが確認されるとすぐにイヌワシが放たれます。イヌワシが獲物にアタックするときの速度は時速160kmに及ぶと言われており、まさに一撃で仕留めます。マヌルネコを狩ったことがあるかが、イヌワシの技量を自慢するときの一つの基準になるそうです。キツネやオオカミは牙でしかイヌワシに立ち向かえませんが、マヌルネコは爪があるので、経験の浅いイヌワシが負傷することもあるそうです。

 新疆ウイグルやカザフスタンのカザフ人の中にも狩人はいますが、その数は二桁くらいと言われているのに対して、バヤンウルギーには、イヌワシを飼育している人数だけで400人に及ぶと言います。この数字を聞くと、”すごい”と思うのですが、実は、これには裏があります。たとえば、バヤンウルギーの中心地ウルギー市から30kmほどのところにあるサグサイ郡には狩人の数はざっと100人ちょっといるといいます。ところが、冬期、実際に毛皮猟を行っているのはわずかに3人です。他の人々は、イヌワシを飼育し、訓練をしているだけなのです。おそらく、狩りをさせれば狩りが出来るイヌワシではあると思いますが、飼い主は狩りを行わないそうです。実際には、マイナス20~30度の厳寒期に山の稜線を馬で移動しながら、獲物を見つけるのは容易ではなく、イヌワシがいれば狩りが出来るわけではないそうです。狩人の経験も大いにものをいうのです。

 さて、それでは、どうして”ただ”イヌワシを飼っている人がそんなに多いのかということなのですが、まず一つは、イヌワシを飼うということがカザフ人の誇りであるということがあげられます。そして、もう一つの理由は、イヌワシ祭に参加するためです。

 イヌワシ祭とは2000年から観光客目当てに新しく創始されたお祭りです。BlueWolf旅行社の社長カナットという男が地方政府と一緒になって始めたのがきっかけで、その後、いくつもの団体が、時期を違えてバヤンウルギー各地で開催するようになりました。もともとは10月はじめにやっていたのですが、10月に入るとモンゴル国内線飛行機の便数が極端に減ってしまい、観光客誘致に問題があるということで、2008年から9月半ばに行うようになりました。この祭の目的は観光ビジネスの創出というだけではなく、民族文化の維持継承、そして発展を視野にいれて運営されています。祭の二日間の間に①イヌワシを呼び、腕に降りるまでのタイムトライアル②地面に引きずっている毛皮に降り立たせるタイムトライアル③伝統騎馬競技”ククパル”④伝統騎馬競技”ティエンイルゥ”⑤伝統騎馬競技”クズコアル”⑥アイトゥス(前述)⑦ラクダレース⑧射的(トバ人やモンゴル人が参加)⑨民族衣装コンテストが開催され、競われます。

 祭に参加すると参加費が主催側から競技参加者に支払われます。競技者は基本的に民族衣装をまとうことが義務づけられており、祭の雰囲気が非常にエキサイティングなものになります。そのまま衣装コンテストにも参加することになりますし、もちろん、各競技において入賞すれば賞金を得られます。ですので、イヌワシ飼育技術や狩猟技術は二の次で、とにかく参加するだけで、すこしなりとも、収入を得られるため、イヌワシ飼育者たちは、可能であれば、あちらこちらの祭に参加するようです。

 私がはじめてこの祭を見物できたのは2009年のことなのですが、翌年には子供の参加も増え始めました。”いかにも狩人”っていう年配者にまざって、一見、ジャニーズのような二枚目の若者が参加しているのです。始まってから10年以上が経った祭ですが、いまではカザフ人たちの中にすっかり根付いていて、次の世代に、祭を通して、民族文化が継承されていることは間違いないようです。

 ただ、9月半ばのイヌワシ競技は少々、無理があるようです。イヌワシは暑いときにはあまり狩りをしません。おまけに夏期の訓練期間中には、頻繁に肉を与えられているため、狩りの意欲がわかないようなのです。ですので、100mちょっとくらいの距離を飛んで、なかなか腕に降りたり、毛皮に降り立ったりしてくれません。イヌワシをつれたカザフ男性たちはとても格好良くて、馬に乗って登場すると、大いに期待するのですが、肝心のイヌワシは飛ばないか、飛んでも、違うところへ行ってしまったり、降りるところを間違えたりと、なんともユーモラスです。去年などは、飛んだイヌワシの方が少なかったのでは?という状況でした。

 祭で行われる他の競技についてお話ししましょう。

 英語表記を読むと”ククパル”なのですが、カザフ語ではどうやら”クク ブル”という競技があります。名称については、今後、一つ一つ確認していこうと思っています。とりあえず、ククパルと呼ぶことにしておきますが、これは、ヤギを馬上で奪い合う競技です。額を叩かれて絶命したヤギが地面に横たわっています。名前を呼ばれた競技者2名が会場に入り、馬上からヤギをすくい取ります。ヤギの重さは40kg~60kgにおよぶようで、これをすくい上げるだけでもかなりの腕力と乗馬技術が必要です。地面に横たわるヤギに馬は近づきたがらないのですが、これを無理矢理寄せていき、すくい上げるのですから、並大抵ではありません。先にすくい上げた方が、自分がつかみやすいように、ヤギの好きな部位をつかんでから、相手にもつかませます。だいたいにおいて、4本足の2本ずつとつかみ合うことになります。そして、その状態から、馬を動かしながら、引っ張り合い、ヤギを奪い取るか、相手を馬から引きずり下ろしたら勝ちとなります。馬の勢いを利用しようとしたならば、少々荒っぽい馬が必要になりますが、両手を使ってヤギを握ると、馬を操ることが困難になります。といって、おとなしい馬だと、これまた、思ったように動いてくれません。両手を離して、両足で馬をしっかりグリップして・・・と何をどうしたらいいやら、かなりの技術が求められる競技です。これは中央アジア地域にもあるということらしいですが、詳しいことは、これから少しずつ調べてみようと思っています。

 さて、次は”ティエンイルゥ”です。直訳すると”コインすくい”という意味です。一説には、”テンゲイルゥ”とも言われています。こちらの”テンゲ”というのは、カザフスタンの貨幣単位を意味し、”硬貨すくい”ということになるようです。どちらが本来の言い方なのかについて、これもまた、今後の宿題と言うことにさせてください。ルールは簡単です。まずは2m程度の間隔で、地面にコインが置かれます。そして、馬の足を止めずに、馬上から体を乗り出して、コインをすくいあげます。祭では6個のコインが置いてあり、沢山すくえた人が2回戦に進みます。2回戦では、コインの置かれた間隔が狭められ、1.5mくらいになります。最多数コインをすくい上げた人が次に進みます。先と同様に、コインの間隔が狭まり・・・という具合に続け、最後の一人が決まったところで終了になります。決勝戦になると50cm間隔くらいになり、終始馬から体が乗り出したままですくい続けないととても間に合わなくなります。

 ”クズコアル”は元々は競技ではなかったそうです。以下は、私とクグルシン氏の会話です。

「昔、若い男女が出会い、なおかつ、好きだって告白するなんて、なかなか機会がなかったんだよ。人が集まるお祭りごとがあったとしても、二人っきりになるなんて許されなくてね。そこで出来た習慣がクズコアルなんだ。結婚式とかで人が集まったときに、『クズコアルで走ろう』って男の子が女の子を誘うんだ。そして、二人で家から離れて行き、家に戻ってくるんだが、家から離れて行く間に、口説くわけ。家に戻って走ってくるときには、女の子が男の子をおもしろおかしくムチで叩くことが許され、人々はその様子を楽しみ、若い二人は、要するにイチャつくってことなんだよ。」

「ん?よくわかんないぞ。口説いてだめだったら?」

「ただ叩かれながら、走ってくるだけ」

「うーん、それじゃ、意中の男の子に声をかけてもらえなかったら?男側だけが選ぶ権利があるわけ?」

「声をかけてもらえないとそれまでだけど、女の子側にも拒否する権利があるよ」

「うーん、でも、声かける段階で男側がどんなつもりか判ってしまうよね。」

「いやいや、男の子はダミーで沢山の女の子に声をかけるんだよ。で、本命の子にだけ、告白して、そうでない子とは、雑談をするだけなんだ。」

「・・・」

正直、よくわからないんです。要するに、公に認められた告白タイムイベントということのようです。これも、もう少し、聞き取りが必要だと思っています。ただ、2頭の馬が寄り添うような距離を保ちながらかなりのスピードで走ってきて、しかも、女性は男性をムチで叩き、男性はわざと叩かれながら、おどけたポーズをとったりしなければならず、それはそれで、かなりの乗馬技術です。祭では、スピードと叩き方、叩かれ方、ふざけた様子などが審査対象となって表彰されます。

 イヌワシ祭を中心に彼らの騎馬文化の一部を紹介してきましたが、モンゴル遊牧民との生活様式の違いなどについて紹介する時間が足りなくなってしまいました。食文化や牧地利用方法、家畜の飼い方、羊のさばき方などお話ししたいことはたくさんあるのですが、まだ私自身の理解も中途半端かとも思います。

 ただ、バヤンウルギーのカザフ人たちは、苦難の歴史を経験しながらも、他の地域のカザフ人たちよりは、民族文化を比較的維持しやすい環境を享受するのみならず、積極的に文化保護伝承発展を視野にいれた活動をしているように思われます。地理的にロシアのアルタイ共和国、カザフスタンに近いことから、経済的にも文化的にも、さらには宗教的に、モンゴル中央への帰属意識は薄くなっているようにも感じられます。若者たちは経済的な成功を求めるなら、むしろトルコやカザフスタンを目指した方がよく、大学もモンゴル国内より国外へ出て行こうという意識が高いです。モンゴル国内にありながら、まるで全く違う国に来たかのような刺激を与えてくれるとバヤンウルギーとそこに暮らすカザフ人たちの今後を見続けていこうと思います。